北辰妙見大菩薩
ほくしんみょうけんだいぼさつ
ほくしんみょうけんだいぼさつ
妙見堂が建てられたこの地は「日蓮聖人の甲斐巡教の杖錫の地」とされる。
昭和26年頃に老朽化した妙見堂は、篤信の深澤家によってブリキ屋根・モルタル壁に改築された。
平成15年の本堂大改修に伴って、妙見堂も再改修された。
妙見堂の厨子に安置されている「北辰妙見大菩薩」は、文久2年(1861年)仏師 木村重信によって彫られたものであり、この像の胎内に真の妙見大菩薩像が入っているため「胎内仏」と呼称される。
地域の人から「お妙見さん」と親しまれている。
天明の頃。世は、深い苦しみの中にありました。
浅間山 の大噴火。空は灰に覆われ、陽の光は弱まり、作物は実らなくなりました。やがて時代は、天明の大飢饉 へと向かっていきます。国じゅうで、人々は飢え、不安のなかで日々を生きていました。
そんな時代に、ひとりの名もなき僧侶がいたと伝えられています。名を残さず、寺の名も語られず、ただ諸国を巡って歩く旅の僧。荒れた村々を見つめ、飢えに苦しむ人々の姿を胸に刻みながら、道をたどっていたのでしょう。
やがてその僧は、甲斐の国・小黒坂へたどり着きました。
この地で僧を迎えたのが、角田三郎の家でした。どれほどの日を過ごしたのかは分かりません。
食べ物さえ乏しい時代。明日の暮らしすら見えない時代。それでも角田家は、旅の僧をあたたかく迎え入れました。それは、豊かさによるもてなしではなく、苦しい時代をともに生きる者への、静かな思いやりだったのかもしれません。
やがて旅立ちの日が訪れます。
僧は、籠に納められていた妙見菩薩の仏像をお礼に置いていきました。
「この地の安らぎを祈って――」
そう語ったのか、それともただ静かに置いていったのか。
その言葉は伝わっていません。けれど、その像に込められた願いは、確かに人々の心に届きました。角田家の人々は、そのありがたいお妙見さまを大切に守り、やがて地域の安穏を祈るための小さなお堂を建てました。
それが、妙見堂のはじまりです。
苦しみの時代に訪れた、名もなき僧。
ひとつのもてなし。ひとつの祈り。
その出会いが、のちにこの土地に受け継がれ、やがて 晴雲寺 へとつながっていくのです。

