Vol.1 承久の乱
このたび、寺庭婦人(=お寺の奥さん、=妻)が身延山大学の長期履修生となり、オンラインで大学の講義を学ぶ機会をいただきました。住職である私自身にとっても、あらためて仏教や日蓮聖人について学ぶ絶好の機会だと思い、一緒に勉強することにしました。勉強は、学んだことを自分の言葉でまとめ、人に伝えることで、より深まっていくものだと思います。そこで、毎月のお題目講では、大学で学ぶ寺庭婦人のフォローもしながら、「日蓮聖人のご生涯」をテーマに、少しずつ皆さんにお話ししていきたいと思います。お題目講に参加できない方にもご覧いただけるように、また自分自身の備忘録も兼ねて、こちらのブログにもその内容を記録していきます。一緒に学びながら、日蓮聖人のご生涯を少しずつたどっていきましょう。
メインテーマは「日蓮聖人のご生涯」ですが、もう一つのテーマとして、「日蓮聖人は、本当に教科書に書かれている通りの人なのか?」ということも、一緒に考えてみたいと思います。
教科書には日蓮聖人について、次のように書かれています。
「古くからの法華信仰をもとに、新しい救いの道を開いたのが日蓮である。初め天台宗を学び、やがて法華経を釈迦の正しい教えとして選んで、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで救われると説いた。鎌倉を中心に、他宗を激しく攻撃しながら国難の到来を予言するなどして布教を進めたため、幕府の迫害を受けたが、日蓮宗(法華宗)は関東の武士層や商工業者を中心に広まっていった。主要著書は『立正安国論』、中心寺院は久遠寺(山梨県)」
『山川詳説日本史』より
何より、皆さんの印象に強く残っているのは、「他宗を激しく攻撃した」という側面ではないでしょうか。
実際、私自身も他宗のお坊さんとお話しをしていると、「日蓮宗は攻撃的ですね」とは言われません。そこは少し言葉を取り繕って、「日蓮宗は元気がいいですね」と言われることがあります。
……まあ、「元気がいい」という言葉の中に、どこまでの意味が込められているのかは、皆さんのご想像にお任せします(笑)。
では、日蓮聖人は、なぜそれほど激しい言葉を使われたのでしょうか。
そこには、どのような背景があったのでしょうか。
そして、日蓮聖人ご自身は、どのような思いで、その言葉を残されたのでしょうか。
・どのような背景があったのか
・日蓮聖人は、どういうお考えがあったのか
・実際に、どのような言葉を残されたのか
「教科書の日蓮聖人」と「実際の日蓮聖人」。
その違いがあるのか、ないのか。
第1回 承久の乱――日蓮聖人が生まれる前の話
さて、第1回目は「承久の乱」についてお話しします。
……といっても、なんと日蓮聖人は登場しません(笑)。
日蓮聖人がお生まれになったのは、鎌倉時代の1222年(承久4年)。その前年の1221年に起きたのが「承久の乱」です。
「日蓮聖人の話なのに、なぜ承久の乱から?」と思われるかもしれません。
しかし、私は日蓮聖人のご生涯を知るうえで、ここは大切なポイントだと思っています。少しだけお付き合いください。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして兵を挙げたものの、幕府側が勝利したという事件です。
日本史全体から見ると、朝廷と幕府の力関係を大きく変え、武家政権の優位を決定的にした(江戸時代の終わりまで武家が中心になった)歴史上の大きな転換点でした。
しかし、日蓮聖人を学ぶうえで重要なのは、それだけではありません。
まず、敗れた朝廷側の三人の上皇が、それぞれ流罪となりました。
後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、そして順徳上皇は佐渡へ。
この「佐渡」という場所が、後に日蓮聖人とつながってきます。
承久の乱から約50年後、日蓮聖人もまた佐渡へ流されることになります。
そして、佐渡に流された順徳上皇と、後に同じ佐渡へ流されることになる日蓮聖人。この二人がどのようにつながっていくのかについては、また後のお話で触れたいと思います。
もう一つ重要なのが、土地の支配をめぐる問題です。
承久の乱の後、それまで各地で公家の「領主」が持っていた土地の支配に、幕府側の「地頭」と呼ばれる人々が深く関わるようになりました。
その結果、土地の支配権をめぐる争いが全国各地で起こるようになります。
もちろん、日蓮聖人が生まれた安房国・小湊(現在の千葉県鴨川市)も、その例外ではありませんでした。
つまり、日蓮聖人が生まれる前に起きた「承久の乱」は、単なる歴史上の出来事ではなく、日蓮聖人が生きることになる鎌倉時代の社会や政治、そして生まれ育った地域の状況にもつながっているのです。
さあ、ここから承久の乱が、日蓮聖人のご生涯にどのようにつながっていくのでしょうか。
次回は、いよいよ日蓮聖人の生まれた「安房・小湊」に目を向けてみたいと思います。
今後もちょっとずつ話を進めていきたいと思います。
根気強くお付き合いをお願いします。